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小さな海の話をしよう

以前は船員をしていました。今後は陸上で時間をうまく使って生きていこうと考えております。

目と脳が物凄く苦しかった2003,4,5

体力 体調 価値観 雑記

視力自体は2000の夏頃から徐々に低下していたと思う。

NARUTOのうちはじゃないが、自分もかなり眼に執着する人生を送っている。

異常といえば、異常だ。

当時は眼鏡自体が嫌いというより、耳と目元に眼鏡が触れる感覚が物凄く不愉快だったのでそっちの方が遥かに嫌だった。

色々な事情があり両親のことも信用していなかったため、眼鏡をかけなかったというのもある。

養ってもらっていたのだが申し訳ないが信用したくない出来事も幾らかあったので仕方ない。

あまり外に書く内容ではないがここではこう書かせて頂く。

2001の高校二年生の頃も騙し騙し生活していたが2002の12月を迎える頃にはもう誤魔化すことが出来なかった。

事故で死ねばそこまでかとは思っていたが、

今でこそ自分の言葉で表現出来るが自分が行動する上で機動力を少しでも損なわれることが多分、

我慢ならない性質だったのだと思う。

それは今も昔も変わらない。

日々動きやすいように色々と考えているし、

例えスーツにリュックサックを背負ってスーツが傷もうが両手を塞ぐ方が危険だと考えているのであまり気にしていない。

「仕事の神様」に指摘されたことがあるが、この点に関してはシカトするつもりだ。

手を塞ぎたくない。以上!!

話は戻るが、2003を迎える頃には少なくとも講義の際は眼鏡を装着することにした。

母親に言われると無性に腹が立った。

おそらく信頼関係がなかったからだろう。

今でも多分ない。離れて暮らしているから表面上だけうまくいっているだけだ。

大学1,2年次に相当する2004,5も相変わらず眼の調子が悪い時期だった。

どこかのデータで視力の良し悪しが子供の成績の良し悪しにそのまま直結するデータがあるらしい。

興味本位で眺めたことがあるがあれは本当なのかもしれない。

眼と脳は直結しているからそういうことだ。

2005の秋にある実習があったのだが、そこでの生活に相当不自由したことが決め手となりレーシックを受ける決意をさせた。

これ以上、不自由な生活を送って自分の時間を無駄にしたくないと強く感じた。

約3ヶ月程、水産加工工場でバイトをしたのだ。

知り合いの先輩がパイプを持っていたため、特別に紹介してもらった。

当時在籍していた大学の学生ご用達のバイトであったのだ。

明確な目的を持ってバイトに打ち込んだのは実は2005の冬が人生初であった。

携帯をセットして真夜中に目覚め、XR250モタード(ブラック)に跨り工場のある島へ向かう。

真夜中の道路は殆どガラ空きで気持ちの良いくらい疾走出来た。

ある程度は限度を持って走行していたが。

普通の靴を当初は使用していたが、凍傷になりかけたため長靴を履いてバイクに乗っていた。

ウインドブレーカーもそうだが、風を完全に遮断する衣類や靴があのような寒さの厳しい環境だと非常に重宝するのだと強く感じた時でもあった。

はたから見ると本当にキチ〇イみたいな働き方をしていたと思う。

たまに空いた時間に家でFate stay nightの初版で遊んでいた。意外とハマったのが懐かしい。

どうしても気を付けていたのが、目標を明確に持って決めた金額のラインを下回らないように何とか考え続けてきた。

こういう時に自分の脳味噌をフル回転させる傾向にあるらしい。

結果的にお金は貯まり、東京都内の品川近視クリニックに予約してレーシックを受けて無事に復活した。

2006の3月、丁度この記事を書いている16日位だったと思う。

その2日後か母方の祖父が亡くなってしまったのだけど。


本番では片目ずつ施術を受けたが赤い光が一瞬発生し、「あっ、死んだな」と思ってしまった。

失敗するリスクも勿論抱えていたが、多少自分で調べた上で施術を依頼したのと一種の賭けではあった。

いちかばちかの眼を賭けた賭けだ。

人間、未知の事に対して臆するというか本当に恐怖を覚える。

ただ、正体を知っていればあまり恐怖しないのも事実かと思う。不思議な話だけど。

2006の3月以降はそれなりに快適に過ごせた。

今の2017も同じく快適に生活出来ている。

色々な人達に反対されてきたけど、彼らに真実を伝えるためにはこうするしかなかった。

さようなら、昔の自分と。


人は苦労すると、大変な思いを経験してくると誰かにそれを伝えたくてたまらないそうだが、

この経験こそが自分が誰かに伝えたくてたまらない内容なのかもしれない。

ようやく当時、「仕事の神様」が言っていたことが理解出来た気がする。

因みに2005の冬から2006の1月末までお世話になった某水産加工工場は現在、社長が亡くなったため会社は解散したらしい。

今でも先輩の一人と連絡を時々取っておりこの間聞かせて頂いた。

もう何も残っていないけど、自分の記憶にはちゃんと当時の風景が残っている。

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